現在、コロナウィルスの影響でお休みちゅうですが、アニメ「キングダム3」は合従軍編に突入しています。(再開が待ち遠しすぎます・・・)
当メディアでも特集記事として、キングダムの合従軍を紹介させていただきました。
よろしければご参考にどうぞ。
キングダム合従軍編がおもしろい!見どころや函谷関の配置や裏切り者王翦・ひょうこう他
アニメでは国の存亡を賭けすべての武力を函谷関に結集し、合従軍から秦国を守ろうとしている真っ只中でございます!
「キングダム」に大スケールで描かれている、この合従軍なるものは本当にあった話なのか気になりませんか?
早速、結論から言うと実話でした。
ただちょっと問題がありまして、それは・・・現在見つかっている記録が少なすぎるのです。
今回はその少なすぎる記録を紹介しながら、当時の様子を想像・考察していきます。
Contents
合従軍は実話。参加した武将や兵力を考察
合従軍に関する記録は5行のみ
私が調べてみた限りでは、紀元前241年に合従軍と秦軍が戦った、「史記」に残されている記録は以下の通りです。
①「韓、魏、趙、衛、楚共擊秦,取壽陵。秦出兵,五國兵罷。(秦始皇本紀)」
②「龐煖將趙、楚、魏、燕之銳師,攻秦蕞,不拔。(趙世家)」・
③「與諸侯共伐秦,不利而去。(楚世家)」
④「諸侯患秦攻伐無已時,乃相與合從,西伐秦,而楚王為從長,春申君用事。
至函谷關,秦出兵攻,諸侯兵皆敗走。(春申君列伝)」
この5行だけです・・・。
順に約しますと、
①「韓・魏・趙・衛・楚が合同して秦を討ち、寿陵をとった。秦が出兵すると五国は兵を退いた。」
「キングダム」との違いは、燕の代わりに衛という国が記されていますが、これは単なる誤字だったという見識があります。
しかし、当時「衛」という国は細々と存在していました。
この「衛」は長い歴史と由緒ある家柄だったこともあり、合従軍にとって逆賊「秦」を倒す大義名分となることから、形だけでも参加していたという見方もあるようです。
恐らく、紀元前300年~250年ぐらいの間の地図と思われ、まだ戦国七雄以外の国も点在していたことがうかがえます。
合従軍は寿陵(場所は不明)という地を奪いましたが、秦軍の出兵で敗走したようです。
②「龐煖は趙・楚・魏・燕の精鋭部隊を率いて秦の蕞を攻めたが、落とせなかった。」
ここでは燕とはっきり記されているので、やはり前述の「衛」は誤字の可能性もありまが、この龐煖が率いる部隊にのみ、燕が加わっていたかもしれません。
このとき主戦場・函谷関では巨大な城壁と2棟の楼閣を駆使し、迫り来る五カ国の大軍をなんとか退けようとする秦軍が、必死の防衛戦を繰り広げていたはずです。
どこを通ったのかは全く分かりませんが、函谷関の脇を抜けて蕞に龐煖率いる部隊がたどり着いたのです。
マンガ本編でも描かれていたように、南の武関を通ることなく山道を通ったのでしょうか?
記録がないので分かりませんが、ちょっと現実的ではないようにも思えます。
函谷関の脇を通り抜けれたなら、険しい山道ではない黄河沿いに進んだかもしれません。(どう考えても秦軍の追っ手がかかるでしょうが・・・)
もちろん大軍が通れるような道はありませんし、兵站の確保など考えられないですから、少数精鋭での短期奇襲攻撃を仕掛けたのでしょうが、『不拔』とあるように、蕞は抜けませんでした。
蕞は首都・咸陽の眼と鼻の先で、もし龐煖に抜かれていたら秦国のダメージは計り知れず、中華統一の歴史は違うモノになっていたのではないでしょうか。
蕞攻略に失敗した龐煖はその後、
「移攻齊,取饒安。(趙世家)」
とあることから、合従軍に不参加だった斉国に矛先を変え、饒安という地を占拠し合従軍を解散しました。
③「諸侯と協力し秦を攻めたが、戦いが不利で引き上げた」
「不利」について、いろいろな要因が挙げられると思いますが、一番の要因はやはり兵站だったのでしょう。
キングダムでは合従軍が長期戦に持ち込めない理由として、斉国に背後を取られているとしていましたが、現実的には兵站だったと思われます。
その主な要因は
・すでに強国となっていた秦を倒すためにはそれなりの兵力が必要で、各国10万の派兵だったとしても総勢50万の大軍に。
これは東京都の江東区民や兵庫県の西宮市民全員が移動しているようなもので、その食糧の確保と移動にはすさまじい労力が必要だったと思われます。
・函谷関への有力な輸送手段としては、黄河を利用した水路が挙げられます。
しかし下流域こそ流れは穏やかですが、山西省や河南省あたりは中流域で、流れの速い場所、川幅が狭い場所や両岸が険しい場所もあって、相当の人員と労力を必要としたでしょう。
(参考:岡田英弘著 中国文明の歴史 2004)
函谷関近辺は比較的流れも穏やかで川幅も広いことから、水軍による輸送が可能でしょうが、両端が水路として不向きなことから使い勝手は悪かったでしょう。
加えて、黄河沿岸の開けた地形は秦軍にとっては監視しやすいので、それなりの対策を施して輸送を阻止するはずです。
・また陸路では牛車や馬車が主な輸送手段でしたが、秦軍の奇襲攻撃や敗戦兵のゲリラ攻撃に備えるため、輸送人員以外に警備兵が必要だったと思われ、前線の兵に加え必要人員の増大が予想されます。
・さらに兵站が長ければ長いほど、牛馬の食糧も膨れ上がり、遠征自体がとんでもなく大変でコストが掛かったと容易に想像できます。
・加えて戦いが長引けば、それらの食糧の保管場所が必要となります。保管場所が襲撃を受け食糧を失えば、その時点で戦が終わってしまうような大惨事となります。
ちょっと考えただけでも、大兵力での遠征は短期間で終わらせる必要がてんこ盛りだったのです。
④「諸侯は秦攻めが難航しているのを問題視し、合従軍を興し西の秦を攻めた。楚王が合従軍の長となり、春申君が指揮をとった。函谷関まで至ったが、秦が出兵すると諸侯の軍は敗走した。」
ここで初めて考烈王が盟主であって、春申君が指揮をとっていたことが明らかになります。
函谷関を楚軍が中心になって攻め、秦軍の主力を引きつけておく。
そして趙軍の龐煖がその隙を狙って蕞を抜け、咸陽にたどり着く二段構えの策だった可能性が高いでしょう。
そしてこれらの策は当然事前に話し合われており、記録にはありませんがその場に趙将・李牧もいたのかもしれませんね。
合従軍を迎え撃つ秦軍のTOPは、呂不韋!
紀元前241年当時、嬴政は18歳になっていました。
本来なら一人前として認められる17歳を超えていたので、対合従軍戦を嬴政が指揮を取ることも可能でした。
しかし国内外の状況を考慮してか紀元前238年、嬴政が22歳になるまで戴冠式(キングダムでは加冠の儀)は延期されていました。
それまで実権を握っていたのは、最高職・相国であり仲父(嬴政の父代わり)の称号を与えられていた呂不韋でした。
つまり記録はありませんが、この合従軍に対して首都・咸陽から、実質的な指揮をとっていたのは呂不韋だったと思われます。
函谷関の総大将は、蒙驁将軍が妥当
また最前線である函谷関では、白起亡き後、活躍が目覚ましかった蒙驁将軍が総大将として戦っていたと推測するのが一番自然だと思われます。
もちろんその後の秦趙大戦で活躍する、王翦・桓騎・楊端和・羌瘣・李信・王賁・蒙恬なども参戦していた可能性が高いのではないでしょうか。
蕞攻めをくい止めたのは、実話では誰なのか?
全く記録がないので、わかりません(謝)
なのでこれも空想の域をこえませんが、合従軍戦の5年後、趙国・鄴攻略戦の総大将となったのが王翦でした。
蕞陥落という秦国滅亡の危機から救った大手柄が、大出世である次の大戦の総大将に結びついたのなら、王翦の活躍があっても不思議ではないのでは・・・。
しかし蕞攻めが失敗したことには迎え撃った秦軍に関わらず、他の理由も大いに影響したと思われます。
・元々かなり無理のあるルートを進軍したので、蕞につく頃には相当疲弊していた
・精鋭部隊であっても、少数では蕞の守りは崩せなかった
・龐煖は蕞攻めをあきらめた後、斉国の饒安を奪っていることから、蕞攻めに加わらなかった兵力もかなりあったか、蕞にたどり着いてもあきらめて引き返した可能性もあるのでは。
全て想像ですが、想像するだけでも楽しいですね。
函谷関の戦いのその後
合従軍が解散したあと、戦国七雄の状況はどのようになったのでしょう。
他の六国は国力が落ち目立った動きがない中、翌年の紀元前240年に秦国は魏国へ侵攻しています。
存亡の危機を脱した秦国が一番早く国力を回復させていることから、合従軍が函谷関へ攻め入った紀元前241年には、すでに戦国時代は秦国の一強状態に突入していて、他の六国は最後の望みとして合従軍を結成し望んだといえるようです。
秦国はその後、国内で起こる内乱を制圧するために他国への侵略を一旦休止させますが、他の六国はその時であっても、秦国に攻め入ることができませんでした。
そしてこの最後の合従軍以降、六国は次々と滅んでしまいます。
紀元前230年 韓、滅亡
紀元前228年 趙 滅亡
紀元前227年 嬴政暗殺未遂事件が発生
紀元前225年 魏 滅亡
紀元前223年 楚 滅亡
紀元前222年 燕 滅亡
紀元前221年 斉 滅亡 嬴政は始皇帝と名乗る
もはや正面から秦国へ立ち向かえる国はなく、抵抗は暗殺という手段しかありませんでした。
実に500年以上続いた春秋戦国時代の乱世は、紀元前241年の合従軍からちょうど20年で終わりを迎えます。
たった20年で六国すべてが滅ぼされてしまうわけですが、実はその準備は随分前から始まっていました。
燕・斉が弱体化。紀元前284年、楽毅の合従軍。
秦国を除く六国の弱体化は、直接秦国に侵略されたという理由だけではありません。
例えば秦国とは国境を接していない斉国と燕国は、お互いが潰しあうことで自滅していった印象さえあります。
「キングダム」でも描かれている紀元前284年の合従軍は、軍神・楽毅が率いることで、70余の城を落とし、斉国の領地は莒と即墨となり滅亡寸前まで追い込まれました。
このとき斉国を攻めた合従軍は燕・秦・韓・趙・魏の5ヶ国50万の軍勢で、斉軍20万を撃破したとされています。
つまりこの時点では、斉国の勢いは他国を圧倒していて、すでに強国となっていた秦国も含めて力を合わせないといけないほどの脅威だったのでしょう。
その後、斉将・田単のさまざまな策略により、楽毅を合従軍から罷免させ、趙国へ亡命させることに成功すると、奪われた70余の城すべてを奪い返します。
この戦い前までは、斉国は秦国と共に中華の勢力を二分するほどの国力でしたが、戦後は衰退し、秦国の一強時代を許すことになりました。
また燕国も合従軍で奪った領土を失っただけでなく、楽毅という天才を失い領土を拡大する術がなくなりました。
遠交近攻策により、燕・斉両国は秦国と友好関係に
弱体化を免れなかった燕・斉国でしたが、その後は秦国の政策に助けられます。
秦の宰相となっていた范雎が、当時の昭襄王に進言した策が、「遠交近攻」策でした。
この策は「遠くの国と親しくし、近くの国を攻略せよ」という内容で、つまり国境を接していない燕・斉、南の遠方にある楚と友好関係を築き、間近にある魏・韓・趙をまず攻略するという戦略でした。
この策に従い隣国を集中的に攻めた昭襄王のおかげで、燕・斉両国は秦軍の脅威から逃れます。
中華統一を視界に捉える活躍をした、大将軍・白起の活躍
昭襄王の時代、紀元前294年に白起を将軍に登用したところから秦軍は無類の強さを発揮し始めます。
①紀元前294~289年に渡る、「伊闕の戦い」で魏・韓連合軍に大勝します。
連合軍は総大将の公孫喜を捕らえられ、24万人もの兵を奪われます。
さらにその後も白起の侵攻は止まらず、一連の戦いで魏・韓から67城を奪い広大な領土を割譲させます。
②紀元前279年~278年にかけて白起が楚国へ侵攻します。
この「鄢・郢の戦い」で、楚は首都を郢から陳へと遷都を余儀なくさせられます。
楚の国力は大打撃をうけ、秦は大きな戦果をあげます。
③紀元前273年、「華陽の戦い」
魏・韓・趙の将軍を捕らえ、13万の兵を斬首、2万の兵を黄河に沈めます。
④紀元前264年、「陘城の戦い」
韓を攻め、9城を取り韓兵5万を斬首します。
この頃より宰相となった范雎の策により、隣接する魏・韓・趙への侵攻が激化します。
趙国の国力を徹底的に奪った、長平の戦い
そして趙国を弱体化させる決定的な戦いが、またしても白起によって行われます。
⑤紀元前262~260年に起きた、秦国と趙国の大戦「長平の戦い」です。
当初秦軍は、王齕を総大将として上党郡を占拠しますが、趙国もすぐさま大将軍・廉頗を差し向けます。
数で劣る廉頗は徹底的に守りを堅め持久戦に持ち込み、秦軍が兵糧を尽かせ士気が低下することを待ちます。
2年の時が過ぎ、廉頗の目論見どおり秦軍に長期戦による疲れと焦りが原因の、士気の低下が顕著に表れてきました。
この状況を見かねた秦宰相・范雎は、離間の計を趙国に仕掛け、総大将を廉頗から若手の趙括へと変えさせてしまいます。
このとき重病の床にあった藺相如も趙王に反対の意を伝えますが、その意見は聞き入れられませんでした。
満を持した秦軍は総大将を王齕から白起へと替え、陽動作戦を用い趙軍に勝利します。
敗戦した趙軍は40万の兵を生き埋めにされ、総大将・趙括も討たれてしまいます。
この長平の戦いにより、趙国は単独で秦国に対抗することは絶望的となるほど深刻なダメージを負うこととなりました。
秦軍、とくに白起に対する現地の恨みは強く、2000年以上たった今も当時長平だった地域である現・山西省高平市では、郷土料理に白起への恨みが表現されたモノが残っているほどです。(参考:TVドキュメンタリー番組 旅空中国「英雄たち8つの峠」 NHKより)
キングダムに出てくる趙将軍・万極は、決して大げさな描写ではなかったということでしょう。
合従軍を二回興した!秦国が本当に恐れたのは戦国四君・信陵君だった
信陵君を紹介する前に、彼もその一人とされていた「戦国四君」について触れておきます。
以下の4人を指します。
・斉国の孟嘗君 (~ 紀元前279年)
・趙国の平原君 (~ 紀元前251年)
・魏国の信陵君 (~ 紀元前244年)
・楚国の春申君 (~ 紀元前238年)
この4人には以下の共通点があります。
・春申君以外の3名は公子(その国の王の子供)で、春申君のみ政治家(宰相)だった
・いずれも3,000人もの食客(特技や才能を持ち、主人を助ける者たち)を養っている
・自国の政治や近隣諸国に対し強い影響力を持ち、時には王以上の存在となった
・勢力を急拡大しつつあった、秦国の侵略を幾度となく妨げた。
・「史記」の中に列伝として残されているほど、4人ともこの時代で活躍した
実はもう一人だけこの「戦国四君」に名を連ねても遜色のない人物がいます。
それは、秦国の相国・呂不韋です。
彼も多数の食客を受け入れていたこと、幼き秦王に代わり政治を担い、勢力拡大をし続けてきたこと、「呂氏春秋」という偉大な書物を編纂したことなど、実績は「戦国四君」を上回るものがあります。
しかし彼が「戦国四君」に含まれていないのは、「戦国四君」自体が一強だった秦国に立ち向かい活躍した、英雄の総称だったからと思われます。
邯鄲の包囲を解き、合従軍を興す
趙国を滅亡の危機にまで追い込んだ「長平の戦い」後も、秦軍は攻撃の手を緩めず首都・邯鄲を包囲していました。
この時、信陵君の姉が趙・平原君に嫁いでいたことから、信陵君の元に救援の要請が入ります。
兄である魏王・安釐王は秦国からの脅迫に援軍を渋るのですが、信陵君は王の命に背いてまで趙・楚、そして自ら率いる魏軍で合従軍を興します。
この時、魏・信陵君、楚・春申君、趙・平原君が関したとされる合従軍は、秦将・王陵や将軍・王齕が率いた秦軍を撃破し、邯鄲の解放を成し遂げ趙国を救います。
紀元前247年、函谷関まで押し込んだ合従軍
また紀元前247年、三川郡・上党郡・太原郡を設置し、さらに魏国へ侵攻しようとする秦軍に対して、魏軍の上将軍に就任していた信陵君は諸国へ援軍を要請します。
この時各国は速やかに援軍を送ると、指揮権も信陵君に委ねていることから彼の名声や手腕・実績により、他国からも絶大な信頼があったと思われます。
ただし、「キングダム」の合従軍でもそうでしたが、この時の合従軍にも斉国は出兵していません。(もちろん斉王は王建です。)
かくして、魏・趙・韓・燕・楚の5ヶ国が参戦した合従軍は秦国内へ侵攻します。
迎え撃つ秦軍は、蒙驁と王齕が率いていており、黄河の南の地・河外で激突します。
このとき合従軍は秦軍を大敗させ、函谷関まで追撃します。
秦軍は函谷関から撃って出られず、死守せざるを得ない状況でした。
そこで合従軍は兵を退き、解散します。
この戦いで、秦国の東方へ向けた勢力拡大は勢いを失い、作戦変更を余儀なくされます。
一方、信陵君の威名は、天下に鳴り響くこととなりました。
信陵君の排除に成功した秦、中華統一へ
白起将軍亡き後、大いに活躍していた切り札・蒙驁将軍を破られた秦国は、信陵君が生きている間は、魏国に攻め入れないと考え、新たな策を仕掛けます。
先の邯鄲の包囲を解いた合従軍において、信陵君は魏王に逆らいますが、その際魏の将軍・晋鄙(しんひ)を涙ながらに殺めなければならないことがありました。
このことを利用し、かつて晋鄙将軍の下にいた食客たちを集め、「信陵君が王位を狙っている」との流言を広めました。
この作戦が成功し、信陵君は兄である安釐王から遠ざけられるようになり、酒びたりの末に紀元前244年、死んでしまいます。
さらに同年、兄の安釐王も死去しており魏は国の2トップを失うことになります。
そしてこの後、秦国の東方進出が加速度を増していくのでした。
「キングダム」の作者・原先生も大好きだった信陵君
信陵君という人物は史実上にドラマティックなエピソードも多く、彼が主人公のマンガもできそうなぐらい、主役キャラです。
原先生も大好きなキャラのようです。
史実がめちゃくちゃ面白く信陵君のファンになっていた僕は、とにかく「信陵君」という単語を作中に出したくて、その食客頭という設定で創作したのが魏軍総大将の呉慶でした。(ヤングジャンプ25号 「戦国七雄の作り方」より)
「キングダム」では、ちょうど信と政が出会うぐらいに、史実の信陵君が亡くなっていますので、登場させようがなかったのですね・・・残念!
とにかく「信陵君」について爪跡を残しておきたのでしょう。
史実では、秦末から前漢にかけて活躍した張耳は、信陵君の食客として有名な武将です。
また前漢の祖・劉邦は魏都・大梁を通るたび、信陵君の祭祀を行ったほど尊敬していたそうで後世に大きな影響を与えた人物でした。
魏・韓・趙の弱体化が進み、最後の合従軍へ
中華統一へ向け、唯一といっていい大きな障害を取り除いた秦国は、一気に東方進出を加速します。
紀元前245~242年にかけての頃、秦王・嬴政は15歳前後で実権は呂不韋が握っていました。
最前線では将軍である蒙驁や麃公が大活躍し、着実に勢力を拡大していきます。
①紀元前245年、麃公が韓国を攻め、3万の首級を挙げる。
②紀元前244年、蒙驁が韓国に侵攻、12~13城を奪い取る。
③紀元前243年、蒙驁が魏国の拠点・畼と有詭を攻撃、陥落させる。
④紀元前242年、蒙驁が山陽・酸棗などを平定し、20城を陥落させる。この地に初めて東郡を設置し、中華統一の最前線基地となる。
この時の蒙驁は飛ぶ鳥を落とす勢いで、まさに「キングダム」の六大将軍級の活躍をしています。
かつてエースだった白起と、この後中華統一に向けて大活躍することとなる王翦の間にあって、秦国を支えたのは蒙驁でした。
ここまで史実に一切登場していない、王翦や桓騎は「キングダム」作中どおり、蒙驁の副官として一緒に戦っていた可能性も大いにあるのではないでしょうか。
最後の頼みの綱だった楚国と春申君
東郡の設置により、いよいよ中華統一を視界に捉えた秦国に、各国は本気で恐怖したに違いないでしょう。
この窮地を任せることができる人物は、広い中華の中でも「戦国四君」最後の一人・春申君しかいなかったのでしょう。
かつて信陵君・平原君と共に合従軍を率いた彼と、前年燕将・劇辛を討ち、その名を轟かせていた趙将・龐煖が組み、紀元前241年の合従軍が興されました。
冒頭にも紹介しましたが、春申君率いる本軍が函谷関を攻めている隙に、龐煖の別働隊が咸陽を落とすために蕞を攻撃する。
これまでの合従軍とは全く違う、二段構えの奇策を展開しました。
恐らく春申君と龐煖の二人は、本気で咸陽陥落を目指し、秦国を滅ぼしにかかったと思われますが、現実は函谷関も蕞も抜くことはできず、合従軍は失敗に終わりました。
この紀元前241年の合従軍以降、他の六国が手を組んで秦に戦いを挑んだことは一度もありませんでした。
各国は自国を守ることでいっぱいとなってしまい、秦国に滅ぼされるのを待つだけとなってしまったのです。
合従軍の失敗を受けて、楚王・考烈王は春申君を責め遠ざけるようになります。
さらに秦国の侵攻に備え、首都を陳から寿春へ移すのでした。
まとめ
今回は現存している合従軍の記録から、どのような戦いだったかを想像すると共に、どうして他の列国は合従軍という手段を選ばなければならなかったかを考察してきました。
滅ぼされる運命だった6国は、合従軍に最後の望みを賭けたのでしょう。
しかし秦国の国力と勢いは、他国の想像をはるかに上回るほどのモノでした。
「もともと、辺境の地の国だった秦国が、なぜこんなに強くなったのか?」「どうしてこれほどの差がついてしまったのか?」、については機会がございましたら考察していきたいと思います。
長々とお付き合い、ありがとうございました。